【第1章無料】 電子書籍 第50弾 知・情・意を育てる方法~「知情意教育」から創造力が発揮される~
はじめに
人の心というのは、大きく3つに表現することができます。それが「知・情・意」という表現になるのですが、知とは知的、情とは感情的、意とは意欲的ということになります。この知・情・意をバランスよく育てることで、心からの成長ができるようになり、その成長が行動として現れてくるのです。
「知情意教育」は生涯をかけての教育ではあるのですが、年齢を重ねていくごとに成長が実感できるようにするためには、教育方法を知る必要があるのです。心の教育というと、見えない教育のように感じられるので、漠然としてしまうのですが、心の教育は意図的に行うことができるのです。
身体の成長というのは、20歳前後で落ち着いていくのですが、心の成長というのは生きている限り、成長するようになっています。「人生の目的」というのを、色々な観点で説いている人がいますが、本質的に説いている人は少ないのです。本質的に「幸せになるため」と説いたとしても、何となく漠然としていて具体性が見えていないのです。
人生の目的を一言で言えば、「心の成長のため」と言うことができます。なぜなら、心の成長というのは「永遠の成長」でもあるからです。身体の成長には限界があり、早かれ遅かれ、やがて死を迎えるようになるので、永遠性を保つことはできません。今は時代の恩恵で平均寿命が延びていて長生きはできますが、永遠には生きられないのは事実なのです。
死後の世界があるか、ないかというのは賛否両論ではあるのですが、はっきりしているのは「あるか、ないかのどちらかだけ」ということです。半分だけあって、半分だけないということではないのです。もし、死後の世界があるとしたら、今現在、私たちが生きている目的は何でしょうか?「死後の世界のための準備期間」だということになります。私たちがこの世に生を受ける前にも準備期間があったのです。その準備期間が、お母さんの胎内での「十月十日(とうつきとうか)」の期間であったのです。
この「十月十日(とうつきとうか)」の期間は誰もが通過しています。次の世界のための、準備期間は誰にでも必要な期間なのです。なので、もし次の世界があるとしたら、今の世界でやるべきことは、心の成長であるということです。心は見えないので、見えない世界で生きることができるということなのです。
本書は「知・情・意を育てる方法」ということで、生涯をかけての心の成長の方法をお伝えします。心の成長をするためには、心の教育が必要になるのですが、その教育が「知情意教育」なのです。知情意教育を通して、今の時代に求められている「創造力」の発揮ができるようになり、創造力を発揮することで価値を見い出すことができるようになります。
人生の目的を知り、その目的に向かって歩むことができれば、充実した人生を歩むことができます。心の成長には限界がないので、生涯をかけて「知情意教育」ができるようになれば、人はどこまでも向上することができます。
2018年1月 安田 悌
目次
はじめに
第1章 知情意とは心
・知とは何か?
・情とは何か?
・意とは何か?
第2章 心を育てる方法
・心と身体は一体
・知情意を育てる習慣
・生涯をかけてやること
・心の成長には上限はない
・心からの自信とは?
第3章 成長ができる教育とは?
・成長ができる教育を受けていない
・人生の目的の本質を明確に知る
・大人の未熟さが次世代の足を引っ張る
・敢えてバランスを崩す
第4章 創造力を発揮する方法
・創造力の土台をつくる
・答えが無い時代
・主体的行動
第5章 理想論、きれいごとから無気力になる
・ありふれた理想論やきれいごと
・道徳教育の弊害
・無気力という絶望
第6章 成長段階を無視しない
・健全な成長段階を通過する
・無理をしないで最善を尽くす
・成長するための投資は惜しまない
おわりに
第1章 知情意とは心
知情意とは心の表現である。
心は大きく3つに分けることができる。
・知とは何か?
「知情意」の「知」というのは、「知性」のことをいいます。心の知の部分であって、知性は知識を学ぶことで育てることができるのです。人は行動をするためには、行動することを決めないと行動ができません。行動することを決めるためには、何かを知る必要があり、何かを知るためには知識を学ぶ必要があるのです。
「知識を学ぶ」というと、頭だけで学んでいるような印象がありますが、頭と心、すなわち脳と心というのは一体になっているので、心で学んでいるのと同じことなのです。もっと言えば、脳と心というのは表現の違いだけであるのです。宗教的に言えば「心」と表現し、科学的に言えば「脳」という表現になるということです。
「知識を学ぶ」という行為は、人間だけがする行動なのです。他の動物は、本能のままに生きていて、一定のパターンでしか生きられないのです。犬なら犬としての行動パターンがあり、猫なら猫としての行動パターンがあるので、元々備わっている本能のままに生きるようになっています。
人の生き方というのは、それぞれの生き方があります。ある人は、学問の分野で才能を発揮し、ある人は芸術の分野で才能を発揮し、ある人はスポーツの分野で才能を発揮する人もいます。才能を発揮していくためには、「知識」というの必要不可欠なのです。知識がなく無防備に行動しようとしても、いくら生まれ持った才能があっても、発揮することはできないのです。
「知」の部分を極めることで、学問の分野での才能を発揮することができます。学者や多くの専門知識を持っている人というのは、知の才能を発揮している人のことをいいます。「知」というのは、どの分野にも必要なのですが、「知」を育てようとする人は少ないのです。勉強熱心な人は、当たり前のように学び続けているのですが、勉強熱心な人というのはごく一部の人だけで、多くの人は「知性」を育てていないのです。
学ぶことというのは、本能に逆らうことであるのです。学ぶ人は、時間が無くても学ぶのですが、学ばない人は時間があっても学ばないのです。学んでも行動をしなければ、何も実現することはできないのですが、行動する前の、学びすらできていない人が多いのが現実なのです。知性を育てることができなければ、何も知ることができないので、何も決めることができません。決めることができなければ、当然行動を始めることすらできないのです。
知性を磨くことは、人としての生き方の基本中の基本になっていくのです。この基本はどんな人にも必要不可欠なのですが、その必要なことすらできていない人が多いのが現実なのです。
・情とは何か?
人は感情の生き物でもあります。感情があるので、その感情を表現する手段として芸術が生まれてくるのです。音楽にしても、絵画にしても、感情の表現に過ぎないのです。人が何かを創造することができるのは、感情が土台になっているので創造ができるのです。
「知情意」という順番から見ると、「知」が最も強いような印象がありますが、実際には人の心の中心は「情」なのです。いくら知っていることが多くても、行動ができない人がいますが、感情が動いた場合、人は行動するようになるのです。
人の無意識の感情は「痛みを避けて、快楽を得ようとする」という感情になります。そして、最も強い感情が「痛みを避ける」という感情なのです。たとえ、快楽を得られなかったとしても、痛みだけは避けようとするのです。そして、時として感情が論理を越えてしまうことがあるので冷静な判断ができなくなり、理屈に合わない行動をしてしまうこともあるのです。
人の心の転換というのは、感情の転換でもあるのです。感情さえ転換されれば、たとえ知性が無かったとしても、行動するようになります。ただ、感情の転換には多くの時間が必要なのです。人の感情というのは、理屈通りに簡単ではないのです。「知っていてもできない」「分かっていてもできない、やめられない」というのは、感情が転換されていないから、できないし、やめられないのです。
現実的に感情の転換というのは時間がかかるので、知性を磨いて、考え方を変えることの方が早いのです。感情によって良くも悪くも無意識の行動ができるようになるのですが、質の高い行動が無意識にできるようになるまでには、相当な時間がかかります。現実的に行動をしていくためには考え方を変えて、考え方を強化させることで、質の高い行動ができるようになるのです。
「情」というの、良くも悪くも強く作用していきます。心の中心であるので、いくら理屈で知っていても、感情を転換するまでには時間がかかります。感情を転換するための時間は、今まで生きてきた人生の半分の時間は最低必要なのです。40歳であれば、転換するまで20年は必要ですし、50歳であれば25年は必要なのです。
人は年齢を重ねていくことで、過去の記憶が蓄積されていくので、転換が難しくなってしまうのですが、感情の転換ができなかったとしても、結果は出すことはできます。結果というのは感情がどうであれ、行動が原因になっていて、実力によって出すことができるのです。なので、感情が転換できなかったとしても、何も実現できないということではないのです。
・意とは何か?
「意」というのは、「意欲」とか「やる気」のことをいいます。無意識からの行動ができるようになるには「情」の土台が必要なのですが、情の土台が無くても「意欲」や「やる気」を持つことはできるのです。ただ、意欲や、やる気は持続ができないのです。人は熱しやすく、冷めやすいので、やる気をいつまでも持続させることはできません。
意欲を強く持っている人は、スポーツなどで意欲を表現しようとします。どんなスポーツをやるにしても、一流になるためには肉体の限界までの練習が必要になります。たとえ一流を目指さないにしても、身体をいじめないことには、どんな競技であったとしても上達させることはできないのです。
スポーツの才能というのは、持って生まれたセンスや身体の大きさが大きく影響するのですが、いくらセンスがあっても、恵まれた身体を持っていたとしても、スポーツをやる意欲がなければ、才能を発揮させることはできないのです。
スポーツに限らず、どんなことを始めるにしても、やる気がなければ始めることはできません。やる気というのは、最初の第一歩を踏み出すために必要なのです。初めてのことを始めるというのは、誰でも不安を感じるし、ごく小さなことであっても最初の第一歩を踏み出すエネルギーが多く必要になります。
行動の継続には、やる気に頼ってはいけないのですが、最初の第一歩を踏み出すためのエネルギーにはやる気が必要になるのです。人によっては「意」が強い人もいます。「とにかく始める」というのが得意な人がいますが、意が強いが故にやる気に頼ってしまい、継続ができない人もいるのです。意が強いと「気合」「根性」ばかりを出そうとして、行動の継続ができなくなるのです。
ただ、初めてのことにチャレンジする場合や、大きなことにチャレンジするためには「意の力」が必要になります。最初の第一歩を踏み出すには勇気が必要なので、その勇気を育てるためにも「意の力」が必要なのです。知情意をバランスよく育てることができれば、心の土台ができるようになり、その心の土台から行動や努力ができるようになります。
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